樹木希林さん(75歳)が15日に亡くなっていたことが発表されました。2003年には網膜剥離で左目を失明、5年前に全身がんであることを公表していましたが、独特の価値観で手術や抗がん剤治療を断ってきました。樹木希林さんと新興宗教の関係、若い頃のかわいさにも迫ってみたいと思います。
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目次
最初の芸名は「悠木 千帆(ゆうき ちほ)」
樹木希林さんプロフィール
本名:内田 啓子
生年月日:1943年1月15日
1961年、文学座で「悠木 千帆」という芸名で女優活動スタート。
当初は、今からは想像のつかない若者ファッションでした。
(出典:Pinterest)
20代から老け役を演じるようになり、1974年に人気ドラマ『寺内貫太郎一家』シリーズで主人公、寺内貫太郎(小林亜星)の母親、周平(西城秀樹)の祖母役を演じたのが当たり役となり、それ以降老母役といえば樹木さんというイメージが定着。
実年齢は小林亜星さんより10歳も年下でしたが、髪を白髪に染め、手の甲は手袋で隠して老婆を熱演しました。
曲がった腰でジュリーのポスターの前で身をよじりながら「ジューーーーリーーー!!」と叫ぶシーンがトレードマークになりました。
(出典:TBS)
オークションに出すものがなく芸名を売る
1977年4月1日、『日本教育テレビ』から『テレビ朝日』への社名変更・局名変更を記念して開催された特別番組の中で、著名人が自分の持ち物をチャリティに出すためオークションにかけるコーナーがありました。
この時、「悠木千帆」さんはオークションに出すものがないという理由で、なんと女優にとっていちばん大事なはずの自分の芸名をオークションに出してしまいました。
このこだわりのなさがよいですよね。なんでも楽しめる人なんでしょうね。
大スターですからどんな高値がつくかと思いきや、あるレストラン経営者に20200円という安値で売却され、「悠木千帆」から「樹木希林」に改名しました。
「悠木千帆」の芸名は、このレストラン経営者から2004年に女優の山田和葉さんに無償で譲渡されました(2代目 悠木千帆)。
歌手としても大ヒットを飛ばす
1977年にドラマ『ムー』、『ムー一族』で共演した郷ひろみとデュエットで「お化けのロック」、「林檎殺人事件」をリリース。
当時は、ドラマの出演者がこんなコミカルなダンスをしながら歌うなんて想像もできませんでしたから、意外性がうけて大ヒットしました。
「林檎殺人事件」の方は、「殺人を面白おかしく歌にするなんてけしからん」というクレームが放送局に殺到する騒動もありました。
歌詞を聞けば、現実の殺人事件の話でないことはわかると思いますけどね(^^;
また、フジカラーのCMに25年以上出演し、写真屋の店員役の岸本加世子さんとの
「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに映ります」
というやり取りも、今も語り継がれる年賀状シーズンの風物詩になりました。
(出典:FujiFilm CM)
用意されていたもともとのセリフは、「美しくない人も美しく映ります」だったそうです。
それを聞いた樹木さんが、
「そんなのおかしい。それに、『美しくない』という言葉が美しくない」
と言って、「そうでない方はそれなりに」に変えてもらったそうです。
結果は、樹木さんのアイデアがばっちりはまってロングヒットとなりましたね。
内田裕也さんとの結婚と、離婚無効騒動
内田裕也さんとは再婚で、1964年に俳優の岸田森さんと結婚し、1968年に離婚しています。
内田裕也さんとは1973年10月に結婚しましたが、わずか1年半で別居し、その後生涯別居生活でした。
(出典:Pinterest)
1976年2月11日に長女の内田 也哉子(ややこ)さんが誕生。
この時も、ネーミングセンスに世間はびっくり。
「ややこ」は昔の言葉で「赤ちゃん」のことですから、「大人になったらどうするんだ!」と国民総つっこみww
今となっては、素敵な名前ですねですんでいますけどね(^^;
1981年には、内田裕也さんが樹木希林さんに無断で離婚届を出すという騒動があり、樹木さんが離婚無効の訴訟を起こして勝訴しました。
裁判では裁判官に、「これだけ別れたがってるんだから別れてあげなさいよ」と言われたそうです(^^;
そんなことがあったにもかかわらず、結局最後まで離婚はしませんでした。
樹木さんは内田さんのことが大好きだったのだと思います。
長女の也哉子さんが本木雅弘さんと結婚する時、「内田の姓を絶やしたくないから」と婿養子になってもらっているほどです。
樹木さんは
「50歳になったので、まだちょっと体力が残っている間に(内田さんに)同居をお願いしてみようかと。世間一般の夫婦のようにはならないと思いますけど、内田さんの琴線に触れていければ・・・」
と語っていました。
その夢が叶うことはありませんでしたが、がんが発覚してからは月に1度は連絡を取り合い、年に1度ハワイで一緒に過ごすようになったそうです。
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2003年に片目を失明
2003年1月に、網膜剥離で左目を失明したことを明かしました。
「どんなお気持ちですか」とインタビューする記者に、
「何とも。私、美貌で選ばれてるわけじゃありませんから」
とキッパリ答えていました。
女優としてのプライドと覚悟を感じましたね。
映画でもがん患者を演じたことも
2007年に公開された映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』では、がんに冒され抗がん剤治療の副作用に苦しむ「オカン」を演じておられました。
この時すでにがんの闘病中でしたから、ご自分の体験と重なっていろいろと思う部分もあったのではないでしょうか。
「オカン」の若い頃を、女優経験のない娘の也哉子さんが演じたことでも話題になりました。
樹木さんは、遺影はこの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の映像からのものを使うように遺言していたことがわかりました。
よほど思い入れのある作品だったようですね。
樹木さんが信仰していた新興宗教
樹木さんは2005年に乳がんを患い、2008年頃には、腸や副腎、脊髄にがんが転移し、13個所を放射線照射で治療したそうです。
樹木さん自ら、「全身がん」と公表していました。
しかし、信仰する宗教の教えもあって、手術や抗がん剤治療を受けるのをやめていました。
その宗教団体の名前は、「希心会」といいます。
樹木希林さんの「希」の字も、この「希心会」からいただいたものだというので、だいぶ昔から信仰していたことがわかりますね。
がんになったから入信したのではなさそうです。
「希心会」とは
昭和28年に創立された仏教系の新興宗教のようです。
名称 宗教法人 希心会
所在地 〒243-0022 神奈川県厚木市酒井字中堰950-1
創立年 昭和28年(1953年)
初代会長 飯島将吉氏(いいじま・しょうきち)
樹木さんが、薬を飲まなくなり抗がん剤治療も断るようになったのは、「希心会」の影響だと言われています。
人間には自然治癒力があり、抗がん剤に延命効果はないという教えによるものだそうです。
医師の中にも、「抗がん剤に延命効果はないので、副作用のことを考えると抗がん剤を飲まないのがベター」とする人もいます。
先日亡くなったさくらももこさんも、抗がん剤治療をすると仕事はできないとして、抗がん剤を使わない民間療法を行っていたことが知られています。
まとめ
樹木さんは若い頃から老いや死を見つめてこられたと思います。
治療法も、ご本人の選択の上のこと。
延命治療をせずに尊厳ある死を迎えるのもひとつの選択だと思います。
樹木さんの場合は、信仰している宗教の教えに従ったというより、ご自分の信条にたまたましっくりくる宗教があったのでそれをそのまま受け入れてこられたということのような気がします。
樹木さんの映画を、思い出を振り返りながらひとつひとつ見返していきたいと思います。
樹木希林さん、ありがとうございました。
樹木希林さんの若い頃の写真や家族写真、衣装などの展示会「『樹木希林 遊びをせんとや生まれけむ展』鑑賞記」をアップしました!
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