ドナルド・キーン先生東京裁判の通訳を断っていた!沢田研二との関係とは

北区サイトにてドナルド・キーン先生のお別れ会の日程が発表になりました。この機会に改めて、キーン先生の海軍日本語学校時代や戦時中のエピソード、安部公房氏との交流、沢田研二さんとの意外な関係などを振り返ってみました。



お別れ会は4月10日 青山葬儀所にて

北区ホームページにて、一般の人が参列できるお別れ会の詳細が発表されました。下記のとおりです。

「ドナルド・キーン お別れの会 <日本の皆さんに感謝を込めて 鬼怒鳴門>」

日程:4月10日(水)一般の献花は午後3時から4時まで

場所:青山葬儀所(東京都港区南青山2-33-20)

ご香典、ご供花、ご供物は遠慮されるとのことです

ドナルド・キーン先生の養子のキーン誠己さんはブログで、2月27日にお通夜を、28日には告別式を親族と親しい友人、知人のみで行ったことを公表していらっしゃいます。

その後はお別れ会の準備でお忙しかったようで、久々のブログ更新をされていました。






東京裁判とドナルド・キーン先生

終戦まもない頃は、宣教師、貿易商、通訳以外のアメリカ人は日本に入国することができなかったそうです。

キーン先生は日本に行きたかったため、ニューヨークで日本に関係のある会社を片っ端から訪問したけれど、荒廃した日本での職は見つからなかったそうです。

そして、東京裁判の通訳に誘われて採用されたそうです。

しかし、日本へは行きたかったものの、捕虜の尋問で嫌な思いをしたことと、戦犯を裁くことの意味を考えて迷ったあげく断ってしまったそうです。

日本の指導者たちを”戦争犯罪人”の名の下に処罰するのは、名目がいかに高尚な響きを持つものであっても、結局は、人類の歴史が始まって以来、多くの国々が行ってきたことを繰り返すに過ぎない。(『二つの母国に生きて』より)


戦勝国の論理で日本人を裁くことに疑問を感じていらっしゃったそうです。

また、東京裁判でアメリカ人判事が「被告人(戦犯)が有罪になれば人類が戦争の恐怖から逃れられる」と述べていたけれども、その後アメリカがベトナム戦争に突入したことの矛盾も説いておられました。

キーン先生はどちらの国の肩を持つわけでもなく、反戦主義者として、一方的な裁判に疑問を抱いていらっしゃったのです。


海軍日本語学校ができた理由

戦時中にアメリカ海軍が日本語学校をつくった理由は、日系人を信用していなかったためと言われています。

当時、日本語を話せる日系人は数万人もいたのですが、海軍は日系人がアメリカに忠誠心を持っているかどうか疑い、日系人以外の日本語通訳の養成を急いだそうです。

一方で、アメリカの陸軍では日系人の若者が大勢参戦してヨーロッパ戦線で戦っていましたので、米軍の中でも考え方が分かれていたことがわかりますね。

アメリカ人にとって日本語はいちばん学ぶのが難しい言語とされていたので、国中から学業成績の優秀な若者が2千人ほど集められて、18か月にわたって集中訓練を受けたそうです。

時代を考えれば当然ですが、当時習った日本語は旧かなづかいで漢字も今のように省略されておらず、はるかに画数が多くて難しかったそうです。

通訳官になるために言語を学ぶことだけに専念したので、軍事に関することは何も教わっておらず、初めて軍艦に乗った時はどちらが艦の前でどちらが後ろかもわからなかったのだとか。

捕虜の尋問は雑談がメインだった

キーン先生は海軍日本語学校を終えられた後、通訳士官として従軍し、捕虜の尋問や日記の翻訳などにあたられています。

捕虜の尋問と言っても、実際は雑談が多かったそうです。

名前や年齢、出身地など、最低限聞くべきことはきいたそうですが、戦艦大和も戦艦武蔵も見たことがない一兵卒ばかりだったので、軍事的な質問をしてもどうしようもなかったのだとか。

日本は軍部の首脳でさえあまり情報を持たないまま戦争に突入していたので、一般の兵士から機密に価するような高度な情報が得られたことは1度もないそうです。

そのため好きな音楽や文学の話がメインになり、戦争が終わっても友人としてつきあいの続いた人もあったそうですよ。

しかし、辛い思いもされたようです。

ある捕虜を尋問していた時、「私は死んだほうがいいですか?生きていたほうがいいですか?」ときかれたそうです。

当時の日本軍では捕虜になるよりも自決せよと教えていたので、捕虜になった後どう生きたらいいのかは考えも及ばなかったのでしょうね。




キーン先生のおちゃめなエピソード

キーン先生はすごい先生なんですが、ユーモアがあって、意外におちゃめな面もあるのが魅力ですよね。

キーン先生は芸能関係には全く興味がなく、そのため、安部公房氏が友人のオノ・ヨーコさんをつれてきた時に、「自分は日本語が話せるのに通訳をつれてきた」と思って不機嫌になってしまい、ずっと横を向いたまま目を合わせなかったそうです。

それを見た安部公房氏は、キーン先生は麻薬にやられていると思ってしまったのだとか(爆)

お互いとんでもない誤解ですね(笑)

キーン先生は、ご自分の失敗や、訳や読み方がわからなくて苦労したことなども包み隠さず公にしておられます。

特に日本人の名前の読みは、調べて出版したものの遺族に間違いを指摘されたり、なかなかわからないことがあったようです。

確かに、日本語なら読み方のわからない字でも漢字のままにしておけばすんでしまいますが、英文にするには読み方を調べなければいけないですからね。

日本文学に出てくる動植物の数が多いことにも苦労されたようです。

ほととぎす、うぐいすなどは日本人にはなじみの深い鳥ですが、英語にすると味気ない学名になってしまうのだそうです。

沢田研二との意外な関係

キーン先生の元に、ある日突然沢田研二さんからCDが届いたそうです。

先生は芸能人には関心がないので沢田さんのことも知らず、あとで大スターと知って驚いたそうです。

沢田さんはキーン先生をテーマにしたバラード「Uncle Donald(ドナルドおじさん)」を作詞していたのです。

Don’t Cry, Donald 僕たちに失望しても
Uncle Donald この国をあなたは愛し選んだ
忘れてならない 何年たっても「静かな民」は希望の灯(『Uncle Donaldより』)


キーン先生は震災を見て、日本人とともに生きようと帰化を決められたのですが、日本人はもっと被災地を助けると思っていたのにそうなっていないではないかと怒っておられたことがありました。

沢田さんのこの曲も、そうしたキーン先生の思いに賛同して、被災者のことを忘れそうな僕たち日本人に失望しないでほしいという思いを歌っています。

「Uncle Donald」が収録されたCD「Pray」はマキシシングルですが、ダウンロードで1曲単位から購入できるようです。


まとめ

キーン先生の生きた激動の時代のストーリーには興味深いものが多いです。

長生きはおめでたいことですが、自分を知る友人・知人が皆いなくなってしまい寂しい面もあったのではないでしょうか。

キーン先生のように最後まで人生を楽しんで生きられたらいいですね。




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